商業誌『悪役令息だけど推しと偽装結婚します』の番外編です。
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わたくしの名前は、ベアトリス。妙齢の淑女ですの。「そんなやつ、いたかな」ってお思いになりましたかしら。
いましたよ。
ええ、わたくし、最初から最後までおりました。
ほら、ここです、ここ。エリオット様のお屋敷にて。
――空気の流れを感じたのか。はたまた、恩あるあるじの訪れを歓迎してか。クモたちは天井から次々と降下してきた。エリオットの頬にクモが落ちてくる。
そして、リーズの港からハットン高等学院のある島に至る、船の上。
――ちなみにエリオットの記憶によると、あのクモの名前はベアトリスというらしい。エリオットの一番のお気に入りで、よくなついていて、家から着いてきたらしい。
ハットン高等学院での、エリオット様のお部屋にも。
――エリオットは、びくびくしながら部屋に入った。ベッドが一つ、机が一つ。中庭に面して窓がある。
教員宿舎へのお引っ越しの荷物にもまぎれておりましたし、卒業式の日におけるエリオット様の渾身の呼びかけには真っ先に応じました。そして、爆風のさなかには、エリオット様のズボンのすそに隠れてゴーレムに飲み込まれておりました。
そんなわたくし、ベアトリスの戯れ事でございます。どうか、しばらく、お付き合いくださいませ。
エリオット様とわたくしは、相思相愛でしたの。
「それは、おまえの妄想なのではないか」ですって?
まあ、失礼な。そんなことはございませんでしたよ。だってあの方――エリオット様は、おっしゃってくださったんですもの。
「あまたいるクモたちの中でも、おまえは一番の美人だよ」
そう、語りかけてくださったんですのよ。
申し添えておきますならば、エリオット様はお側に仕えている無数のクモたちを、きちんと見分けていらっしゃいました。そう、そのような最高の方だったのです。
それなのにある日、突然変わられてしまいました。あるとき、エリオット様は大切にされているわたくしどもの部屋にいらっしゃいました。もちろん、わたくしどもは、エリオット様にご挨拶するべく、糸を垂らして馳せ参じましたの。
いつもなら、自分たち一匹一匹をちゃんと見て、お声をかけてくださいます。とりわけ、わたくし、ベアトリスのことは手にとって、目を細めて褒めてくださるのに。
エリオット様は硬直して、体温も低くなっておりました。
どうされたのでしょう。
心配になったわたくしは、エリオット様についていくことにしたのです。けれど、船上でわたくしは、エリオット様から引き離されてしまいました。
「いいやあああ、とって、とってとって!」
「おいおい、しがみつくな」
逃げ出そうとしたのですが、その金髪の人間のオスは、やたらと素早かったのです。わたくしのことを、ひょいとつまむと持ち上げました。このときばかりは、わたくしベアトリスもこれで最期かと覚悟いたしました。
「……とれたよ」
人間がクモのことをどう扱うか、わたくしは聞き及んでおります。皆がエリオット様のように素晴らしい方ではないということも、知っております。わたくしはこのまま、男の指に潰されるか、靴裏で圧死するか、海に投げ捨てられるか。そう、覚悟したときでした。
「立派なクモだな」
その男はにやっと笑って、わたくしを船の手すりの上に置いたのでした。
「ご主人についてきたのかい、子猫ちゃん」
――わたくしは子猫ではございません、クモでございます。
そう言いたいところでしたが、命が助かったわたくしは、そそくさとその場をあとにしたのでした。
そうして、わたくしはエリオット様についてこちら、ハットン高等学院まで参ったのでございます。
エリオット様がまずなさったことは、あらゆる蓋と引き出しをあけることでございました。それから、ほっと息をつかれました。ご本人はわかっておられなかったでしょうが、小さくつぶやかれた言葉が、わたくしの耳に届きました。
「よかった。『あれ』がいなくて」
このときにわたくしには、「あれ」がなんだか、わかってしまったのです。エリオット様が探していたのはクモなのです。しかも、いなくてよかったと思われているのです。
そのように嫌われるなにを、わたくしどもがエリオット様にしたのでしょうか。
――エリオット様、エリオット様。どうか、わたくしの想いに気がついてください。元のエリオット様にお戻りください。
悲しみながらもわたくしは、エリオット様のお近くから離れませんでした。
エリオット様は、落ち込んだり、浮かれたりと、以前よりも随分と落ち着かないご様子でございました。
ある日、わたくしがエリオットのお目にふれぬよう、こっそりと羽虫が巣にかかるのを待っておりますと、慌ただしく、大人の男性が何人も入ってきて荷物をまとめていくではありませんか。わたくしは賢いクモですので、なにかあったのだと気がつきました。
エリオット様。あなたがどんなに変わろうと、わたくしの忠誠は変わることありません。あなたについて行きます。わたくしは隙を見計らって荷物の一つに潜り込みました。そしてそのまま、同じハットン高等学院の、もっと広い部屋に移ったのでした。
そこでのエリオット様は、さらに落ち着きを失っておりました。
ときどき深いため息をつく。ベッドの上で寝返りをついて声をあげる。今度は顔を伏せて両足をバタバタさせる。
いったい、エリオット様はどうされてしまったのでしょうか。
そんなこんなで、卒業式となりました日には、わたくしは講堂からのエリオット様の呼びかけにいち早く駆けつけたのです。わたくしはエリオット様の襟元から中に入り、しっかりと両手両足そのほかを踏ん張っておりました。そう、ゴーレムに飲み込まれたときも、さらには、わけのわからぬ場所に飛ばされましたそのときさえも。
そうして、エリオット様は無事に卒業され、またお引越しをされることになりました。もちろん、わたくしはついて行きましたとも。こんどは、たいへんに長い旅でした。
ついたのは、チェスターフィールドという領地のお屋敷でございます。
春。
暖かく草花は芽吹き、小さなクモの子たちがたくさん生まれる、そんな季節でございました。
そこで、わたくしに決定的なことが起こったのです。いえ、「エリオット様に」というべきでしょうか。
エリオット様とやけに近しい、つがい候補のオスがおりました。あの、船の上でわたくしを「子猫ちゃん」とのたまったオスでございます。このオスは、幾度となくエリオット様に求愛を繰り返しておりました。エリオット様もまんざらではなさそうなのに、お二人は、近しい友人として過ごされていたのでございます。
なので、わたくしはお二人は一生このままなのではないかと、そのように思い違いをしておりました。
とんでもございませんでした。あの男は野獣です。クモの秘めやかな交尾とそれは、あまりにも違っておりました。
目を見交わすところから始まって、口をつけて脱皮ののち求愛のダンスを二人してかわして、そのあとに交接です。やっと終わったかと思ったら、また最初から始まるのです。
なんということでしょう。次の日に目覚められたエリオット様は、クモのわたくしから見てもたいそう艶めいておられました。
そしてわたくしは悟ったのです。もうエリオット様には、わたくしがいらないのだと。
それを証明するかのように、エリオット様は、お名前まで変えらてしまいました。「セラ」というのが、その名前です。
――さようなら、エリオット様。
わたくしは泣きながら、エリオット様の部屋を後にしました。
もう、わたくしはいらないのです。いらない子なのです。
泣きながらさまよったあげく、たどり着いたのは、オンボロの納屋でした。もう使われてはいないそこには、虫がたくさんいて、わたくしは泣きながら巣を張ると、虫を死ぬほど食べました。
「どうしたの、可愛い人」
話しかけられて、そちらを振り向くと、立派なオスのクモがわたくしのことを優しく見つめていました。
なんだか、彼には見覚えがあります。彼のほうも、はっとしたようにこちらを見ました。
「もしかして、きみはビアトリス、ビアトリスじゃないか」
「そういうあなたは、マクシミリアン? なんで、あなたがここにいるの?。あなたは、エリオット様のお屋敷にいたはず……」
「そうか、きみは知らないんだね、ベアトリス」
マクシミリアンは、その黒々とした目を伏せました。そうすると彼の多数眼が、各々違う輝きを持ってゆらゆらと揺れるのです。愁いに満ちた彼はとても素敵でした。
「あれから屋敷は人手に渡ってね。ひどいもんだったよ。クモたちはみんな、追い払われるか、もっと悲惨な目にあった。ぼくは命からがら、馬車を渡り歩いてようやく、ここにたどり着いたんだ」
「そうだったの。おそろしい目にあったのね」
「でも、そのおかげできみに会えたよ、ベアトリス。きみは、エリオットについて行ったんだろう」
「ええ、そう。でも、いいの。エリオット様はつがいを見つけられたから」
「だったら、どうだろう。そろそろ、きみ自身のつがいを見つけてみるとかは」
「え、わたくしの?」
考えたこともなかったことを言われて、わたくしは戸惑いました。マクシミリアンは、はにかんだ様子で、こう、言いました。
「ベアトリス。もしよかったら、ぼくを、つがい候補の一人にしてもらえないだろうか」
「マクシミリアン」
「ぼくは、前から、きみのことが……」
わたくしたちの想いは大きく燃え上がったのでした。
そしてそれから数年が経ち……――
「こんなところに、納屋があったんだ」
そう言いながら、納屋の戸を開けたセラ・エリオットは、天井からの大量のクモたち――ベアトリスとマクシミリアン、および、その子孫たち――の降下に「ぐわわー」と、奇妙な声をあげることになったのであった。
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